中ノ島公園のバラ園

5月中旬から下旬にかけて、中ノ島公園のバラは、いっきに満開を迎えた。
ミックは2週に渡ってカメラをパチパチ。

たくさんのバラとその各名称と作者名を写真に撮ったのだが、ミックには違いがよくわからないものも多い。

でも、わからなくてもバラの美しさは変わらない。さあ、美しいバラたちの競演をご覧ください。

それぞれの写真に、カーソルを当てると、興味深いバラの名前が出ますよ。

http://f.hatena.ne.jp/proy/edit?page=1

やっちゃったの、大失敗!!!

時を少し遡り、ミックの引越し前に戻ろう。
というのは、語るも恥ずかしい事ながら、と云いつつ、ミックはあのひどい失敗談を披露することによって、半ば自虐的な快感を得る事にしたのである。
通常なら考えられないような、また、同情され、またあきれられるしかないその類の失敗は、隠しておくよりは発表してしまった方が気分がすっきりする、というのが理由である。すでに親しい知人や家族には話してしまい、慰めと笑いを得ていることでもあるし・・・
ミックは車を売った。あまり時間がなかったのと、ズボラのせいで、労を取らずにインターネットで見つけたサイトから、数件のバイヤーとコンタクトをを取り、一番高い値をつけてくれたバイヤーが、ある午後、車を引き取りに来た。パーキング内で現金を受け取り、それを、車のタイトル(所有者であるという証明書)を保管していた封筒に入れ、荷造りの真っ最中でごった返しているキッチンのカウンターの上に無造作に置いたまま(ミックは通常、部屋に帰るとほぼ自動的に、バッグを含む全ての手持ちの物、つまりショッピング・バックやメールボックスから取り出してきた請求書やジャンクメールなどを、ドアを入ると一番手近にあるそのカウンターの上に、まず置く習慣があるのである)、いつのまにか忘れられてしまっていた。
荷造りのせいもあり、その間にも、封筒の上にはゴミを含む雑多なものが積もり積もっていった。
運送屋さんが荷物を引き取りに来る前日、ごった返している部屋を見渡したミックは(その様子は先のブログに書いているので想像がつくはずである)、とにかく捨てるモノを外に出してしまえば少しは片付くと、再度判断し、またまたゴミというゴミを、ゴミ袋やショッピング・バックに詰め込んでは階下のコンテナに捨てにいった。
ちなみにアメリカではゴミの仕分けや規則などがないので、多くの人はショッピング・バックを利用している。
その夜、運送屋さんが荷を運び出せる程度の空間を確保したミックは、午後の成果にかなり満足して、ふと、運送屋さんにあげるべきチップの事を思ったのである。知り合いの運送屋さんは、きっとメキシカンのヘルパーを(これまでの運送屋さんはいつもメキシカンのヘルパーを伴っていたので)少なくとも二人は連れて来るに違いないのだが、財布を入れたバッグが見当たらなかったので、その1週間ほど前にバイヤーから受け取った現金のことを思い出したミックは、そのとたんほとんど悲鳴をあげながらキッチン・カウンターに飛びついていた。
取り散らかったカウンターを引っかきまわしながらも、その午後のゴミに出してしまったことはすでにわかっている。なにせ、そこにはジャンクメールなどが山積みになっていたので、紙類のほとんどを捨ててしまっていたのだから。
あわてて部屋を飛び出し、エレベーターを待ちながら記憶をまさぐっている。カウンターの上にはジャンクの他に、通常なら後でフォルダーに入れておく請求書の類も積もり積もっていた。ほとんどのモノをすでにキャンセルしていたので保管する必要性を感じなかったのだが、中にはクレジットカードの請求書や銀行の明細書も混じっていたため、ゴミとして出す時に、中が少し透けて見える白いショッピングバックに入れることは避け(何と懸命な判断だったことか!)、黒いゴミ袋に入れたに違いないと判断、そして、その黒いゴミ袋はミックが憶えている限りでは、たった二つしかなかった。幸いなことにコンテナのひとつを、またしてもミック一人のゴミでほぼ満杯にしていたため、その黒いゴミ袋のひとつは一番上の辺りに顔を出していた。さらにラッキーなことに袋を開けるとほとんどすぐに白い封筒は見つかり、もちろん中の現金も無事だった。
「ああ、良かった、神様ありがとう」と、ミックは、その封筒を今度はちゃんとスーツケースの中に放り込んだ。
翌日、やはり二人のメキシカンを連れた運送屋さんが荷物を運び出している最中に、ミックは例の封筒をスーツエースから出して、再びカウンターの上に置いたのだが、部屋がすっきりしたため前夜見当たらなかったバッグが出てきて、中の財布にはチップに十分な額が入っていたので、結局封筒にはタッチしなかったのある。
運送屋さんが、ベッドやソファーなどの粗大ゴミを捨てていってくれたので、久しぶりに広々とした部屋に大満足、残るキッチンの片付けにかかった。人にあげる物捨てる物を仕分けしている内に、カウンターの上はゴタゴタとなり、例の封筒は再び忘れられてしまったのである。
その夕刻、ミックは送別会をしてくれるというお宅に呼ばれていたので、それまでにキッチンを片付けてしまおうと、またしてもゴミ出しに精を出した。封筒のことを思い出したのは出かける少し前。チップを渡した後、財布の中には数ドルしか残らなかったことを思い出したので、キャッシュを補充しなければならなかったからである。ミックのショックは前夜よりも激しかった。スーツケースから取り出したことははっきりと憶えていたが、念のためひっくり返してみる。出かける時間だったので、とりあえず、コンテナに出したゴミはそっくり残っている事を確認する。ゴミ収集が翌日だということは知っていたので、帰ってから探すことにして外出したミックは、楽しいひと時を過ごした。その時点では、前夜のこともあって気楽に構えていたのである。
ミックが戻ったのは11時に近かったが、その時間ではまだ人目があるので、真夜中を過ぎるまで待つことにして、知人が引き取りにくるはずのTVを見ながら過ごし、1時をとおに回ったころ、分厚いコートを着込んで階下に下りて行った。いまいましいことに、出かける時にはミックのゴミは上の方にあったのだが、数時間の後、よそのゴミがかなり増え、しかもほとんどが、当然の習慣で、ミックと同じような白いショッピングバッグである。さらにゲンナリすることに、ほとんどのゴミ袋には生ゴミが混じっている。寒い最中だったから我慢もできたが、真夏ならきっと引っ掻き回す前にあきらめていたかもしれない。何とか6個までは自分のゴミ袋を引っ張り出し(半透明だからなんとなくわかるのである)、中を探してみたが封筒は見つからない。大小8個の袋を運んだことは記憶にあるのだが、あとの二つは底の方に埋もれてしまったらしかった。間違えてよその生ゴミまじりの袋を何個か開けてしまったミックは、それ以上荒らす気力をなくし、ついにあきらめてしまった。
バイヤーの付けた値は、ミックの期待を大きく裏切り、たったの370ドルだった。99年型であまり人気がない車種だからだというが、一時はがっかりしたミックもその時は、それくらいのキャッシュで良かった、と思えた。それにしても、ミックが370ドルもの大金を、案外あっさりとあきらめたのには理由があった。
封筒をまたしても捨ててしまった事に気が付いたミックは、出かける寸前まで一応は、部屋の中にまだ残っているゴミをチェックしてみたのである。ゴミとしてだすモノは一箇所にまとめていた。白い封筒が数通あったので開けてみていると、ひとつの封筒の中から10万円という大金が出てきたのだ。
ミックが日本に帰るたびに、母親が『飛行機代よ』と、10万円を入れた小さな封筒をくれた。前の年の3月、ミックは帰国していたが、その時、母親は『銀行に行くのを忘れていて7万円しかないの、ごめんね』といいながら、いつものように封筒を手渡してくれていた。だから、その封筒はそれ以前のモノなのだ。そして、車の代金をゴミとしていなかったら、知らぬが花とはいえ、それもまたゴミと化するはずであった。ミックが意外なほどあっさりと、例の封筒探しをあきらめたのは、お母さんの『愛』のおかげなのである。
とはいえ、ゴミ収集が来るのを待って、「大事なモノを捨てちゃった」とか何とか云って、ゴミ袋を探させてもらおうか、と考えつつ、ミックが眠りについたのは当然のことであった。

久しぶり、プロイ!








ようやくのことで、ミックがブログに戻ってきた。

引越し騒動から、どれくらいたっただろう?

ミックが、シカゴを発ったのが3月1日、それから、何故かエル・パソに飛び、その後、古巣のラスヴェガスに寄って友人たちとお別れをし、日本に着いたのは3月9日。

成田から大阪・伊丹空港行きに乗り継いで、これからの住まいとなるミックの兄のマンションに着いたのは、夜8時ごろだった。
九州から出て来ていた母親と一緒に、歩いて数分の距離にある、これからの職場、つまり兄が今年の2月20日にオープンした居酒屋に行ってみた。
つまり、ミックが帰国することになったのは、兄のオープンする店を手伝うためだった。

ミックが帰国し、お店に少し慣れるまで、手伝いをしてくれていた女性が、その週末までということだったので、ミックは翌晩からさっそく出て、3日目からは閉店までしっかりこき使われ、4月もあとわずかとなった今日に至っている。

そこで、シカゴを発つまでのこと、エルパソ見物やラスヴェガスのことは、しばらく置いておいて、まずは、新しいミックの生活から再開することにしよう。

ミックが暮らすことになった兄のマンションは、梅田からJRで二駅目、大阪城は歩いて20〜25分くらい、近所には長い長い賑やかな商店街がある。
この商店街をブラブラするのが、これまでのところミックのストレス解消となっている。
また、有名な天満宮も近いし、後ほど紹介する造幣局も近く、電車の便もバス(まだ利用したことはないが)の便もいい。

ミックの兄がオープンした居酒屋は、元々、彼の行きつけの店だった。ミックも帰国した際に、何度か連れていってもらったことがある。
そこのオーナーがリタイアしたので、適当な店を探していた彼は、そこを借りることにしたのである。
一番の利点は、家からわずか数分の近さだということ。

居酒屋だから、ディナーだけだとタカをくくっていたのだが、ミックが少し慣れてくると、仕事の鬼と化した兄は、さっそくランチもオープンすると決めてしまった。
ふたりきりだからタイヘンである。朝は9時半には店に出、ランチの準備、オープンは11時半から2時まで、夕方は4時半から準備にかかり5時半から10時半まで、とはいっても、 お客さま次第では店を閉めるのは11時、11時半ともなり、通常家に帰ってくるのは12時を完全に回っているし、ひどい時は1時を過ぎるときもある。

こんなはずではなかった・・・ミックはへとへとになりながら、幾度もボヤいたが、それにも慣れてしまうと、疲れも少なくなった。
元々、ミックは回復力が早く、唯一のとりえが『健康』なのである。

ただ、ほとんど一日中立っているわけだから、終わるころには足がむくんで、朝よりは数センチは太くなっているはずだし、それが永久的になったらどうしよう・・・と心配している今日この頃である。



大阪は寒かった。 幾度も幾度も真冬が戻ってきた。
暖房の効いたアメリカの部屋に慣れていたミックには、家の中の寒さはたまらない。しかも、ミックのために空けられた部屋は、長い間物置と化しており、冷暖房がこわれているというし、ストーブは居間に1台しかないときているので、本当に寒い寒い日々を送る羽目となったのである。

冬用の衣類は、ほとんど持ってきていないのだが、船便で送った荷物があるので、新しく買うのもバカバカしいし、第一、兄は当分は給料なんか払えないぞ、ケロリとしているので、無駄遣いも出来ないのである。

シカゴから着てきた薄っぺらなジャケットを、ずっと着っぱなしである。(何故薄いジャケットかというと、空港までは知人が来るまで送ってくれたし、立ち寄るエルパソもヴェガスも暖かいので、厚手のコートは、空港や機内で邪魔になると思ったからである)

そんな大阪にも桜は咲いた。
4月初旬、ミックは兄と共に、近所の河畔沿いの桜並木を散策した。
日曜の午後だから、花見客でにぎわう中を、ブラブラと大阪城まで歩いていくと、桃園にも人々が群っている。 正直なところ、桃の花のほうがきれいだとミックは思う。

河畔の桜は見事だったけれど、翌週の大雨で大方散ってしまったころ、大阪では有名だという造幣局の『通り抜け』が始まった。 
これは、造幣局の庭を一般に開放し、1週間に渡って、種々の八重桜を公開するというもので、その週の日曜日の午後、ミックも今度は兄抜きで見物に出かけてみた。
なにせ、花見に風情のカケラもない兄はガンガン歩くだけで、迷子になるまいとミックは早足で歩かねばならず、ひとりの方がよほど気楽である。

入り口はひとつなので、そこにたどり着くまで、前に歩いた河畔沿いを行くと、にぎやかな店がたくさん出ている。
ブログに載せるために、写真をパシャパシャやりながら、たこ焼きを頬ばりコーンをかじっていると、トイレにいきたくなる。 公園のトイレの他に簡易トイレも設けられており、ミックは長い行列に並んだ。 やっと番が回ってきたのだが、トイレはすべて和式である。

実は、ミックはすでに和式を使えない身体になってしまっている。 つまり、ひっくり返りそうなのである。
しかし、背に腹はかえられないので、何十年振りかの和式に挑戦し、何とかひっくり返らずに用を済ませてほ〜っと長い安堵の声をもらしてしまう。

ようやくのことで造幣局のエントランスにたどりついたが、ここは本当に『通り抜け』であった。
拡声器を持った係員がたくさん出ていて「立ち止まらないでください、写真撮影で立ち止まらないでください、混雑の原因になります」 と怒鳴っているが、すでに混雑しているし、誰も聞いていない。
たくさんの見物客があちこちで記念撮影をし、混雑しているおかげで、桜をゆっくりまともに鑑賞できるんだよね、とミックはつぶやきつつ、カメラをパチパチ。
桜の種類の多さは、大阪一らしい。

それにしても、600メートルの距離を1時間近くかけて歩いたのだから、係りの方、拡声器を無視してごめんなさい、とミックは殊勝である。

まだまだ続く荷造り

何故か、あれから全く片付いていないような気がする、というか、部屋の中はものすごい状態が、しばらく続いていた。

というのは、ふたつあるクロゼットの中には、引越しの経験がある人にはわかるはずだが、信じられないほどのモノが詰まっているようで、永遠に終わらないんじゃないだろうか・・・ひょっとしたら異次元の世界につながっているのではないだろうか、だってこんな物買った記憶もないし・・・と、ミックはため息をついてひと休みばかりしていたのである。

クロゼットや引き出し、タンスの中の物を、とりあえず少しずつ外へ出す仕事を続けている内に、狭い部屋の中はそれこそ、『足の踏み場もない』状態を超えるものすごいことになってしまっていた。

それらの物を運びつつダンボールに詰めていくのだが、散らかった中にちゃんと通り道でも作れば良いものを、モノをまたいだり足で押しのけたりしながら移動するので、今に絶対につまずくに違いない、とわかっているくせにそうしない、ズボラなミックである。

そうしているうちに、期待通りやっぱり見事にころんでしまった。それまでにも、すでに何度か小さくつまづいていたのだが、何事もなかったものだから、ミックはいい気になっていたらしい。胸と腕と膝の3ヶ所を、イヤってほど打ってしまい、しばらくそこに寝転んでいた。そして、やっぱりズボラなミックは、その痛みを理由に、本格的にカウチに寝転がると、本棚の奥から出てきたコミックを読み出すのである。

しかも、時期は悪い。ミックはオリンピックを観るのが大好きなのだ。競技は何であれ、7時になると、ミックはピタリと片付けを辞めてカウチと同化する。CMの合間に食べる物を取りに行き、トイレに行き、時折、『ああ・・・今日もあんまりはかどらなかった・・・』と部屋の中を見回して、その日百回目くらいのため息をついている。

それでも、少しずつは片付いていたらしく、いつの間にか床が見えるようになっていたのが、つい2日前。頑張って、ゴミを出したのが良かったのだ。アパートのゴミ用のコンテナは大きく、ふたつある。コンテナが空になっているのを、ちゃんと確かめてからゴミ出しをするくらいには賢かったので、ほとんどひとつと3分の1を、ミックひとりで使ってしまった。週末だったので、さすがに他の住人に気が引けて、少しの隙間を残してその日のゴミ出しは終わりにした。

今日の午後になって、知り合いの運送屋さんが、明日の朝引き取りに来てもいいか、と電話をよこしたので、ミックはあせった。荷造り用のダンボールその他を運んで来てくれたのは、2週間も前なのに、まだ出来ていないと聞きあきれられたに違いないが、3日後にしてもらった。

その間の部屋の様子を、是非写真に、と思ったのだが、カメラが見つからなかった・・

さあ!始めなくっちゃ!!!

去年1月下旬に、プロイが逝ってしまってから約4ヵ月後の5月半ば、若い友人の4才になるメスネコを、彼女の夏期休暇の間だけ、ということで預かったんだけれども、その友人は夏休みがあけると、引越しをしてしまい・・・ヒエ〜ッ!そこはネコを飼えない家だった。

引き取り先が見つかるまで、ミックが引き続き預かることにしたんだけれど、なかなか見つからないまま、年が明けてしまい、2月に入ると引越しの準備を始めなければならないので、友人もミックも一所懸命になった。

ようやく、可愛がってくれそうな若い男性が見つかって、昨日、ミックと友人で、その子を引き渡してきた。

プロイのことをプー(クマのプーさんみたいにPoohと綴る)と呼んでいたんだけれど、その子はなんとPちゃん、しかも、毛色も同じキジネコなので、しょっちゅう間違えて呼んだり、また、Pちゃんを見ているとプーを思い出しては悲しくなった。
だから、ミックにはPちゃんを引き取る事は、とても考えられなかった。

可愛くてちょっぴりオデブちゃんで、甘えっこで大騒ぎ大好きののPちゃんがいる間は、とてもじゃないけれど、引越し用のダンボールを広げられなかった。

過去の引越しでは、プーが荷造り中の箱に飛び込んだり、ツメをたてたり、そのたびにミックは怒鳴りまくったり追い払ったりして大騒動だったから、プーよりはるかに若くて元気なPちゃんのやりそうなことは容易に想像できる。

Pちゃんがいなくなった部屋は、プーの時とは違う意味ですっかり淋しくなったけれど・・・8ヶ月以上も一緒に暮らした可愛い子だものね・・・でも、今はそんな感傷にひたってはいられない。

さあ、明日からいよいよ引越しの準備を始めるぞ!!(なんで今日からじゃないのかなぁ??だって日曜だよ)

はじめまして、ブログ!

アメリカ生活21年、ついに日本に永久帰国なの。

長いようで短かった・・・なんて、ありきたりな表現だと思っていたけれど、今はホントに実感ね!

最初は、ニューヨーク、15年2ヶ月。
次は、ラス・ヴェガス、2年8ヶ月。そして、シカゴの3年2ヶ月・・・やっぱり長い!よね。

アメリカをまたにかけて移動したような・・・そんなミックのそばには、いつも愛猫のプロイがいた。
飛行機や車での大陸横断に付き合ってくれたプロイ・・・今はいないプロイへの愛をこめて、ミックのプロフィールは、プロイにしたの。

これからのブログは、アメリカの思い出と、プロイの思い出と、新しい生活を交互に書きつづろう・・・と思う。